芳さんのエッセイ №154

芳さんのシアトル特派員報告

(154) 私に大切な想い出を残してくれた人たち
Part Ⅲ

2024/04/25



前回の特派員報告に出てきたTさんとのリレーションシップが終わりに近

づいた頃に
Kさんとの出会いがシアトルでありました。1990年代の中頃の

ことで
Kさんの年齢は私とほぼ同じでした。私は今でこそ髪の毛はほとん

どなくなってしまいましたが、当時は髪がふさふさでした。
Kさんはそれ

とは対照的に、典型的なアメリカ人の禿げたおじさんで、私より
10歳以上

も年齢が上に見えました。でも彼のそんな見た目も私には十分にアピール

しました。(多くのアメリカ人白人種の男性は中年以降の見た目は、実際

の年齢よりはずっと老けて見えます)。
Kさんと出会ったのはシアトルのG

バーでカウンターの横で彼が自己紹介してきたのを覚えています、その最

初のフレーズも耳に
.残っています。Kさんの最初の印象はブルーアイズの

きれいな人だなと思いました、その
Kさんも私を大切にしてくれた一人で

した。奇しくもこの原稿の原案のアイデアを考え始めたのが
219日で、

31
年前の今日知り合いました。何というタイミングでしょうか。

 

Kさんはワシントン州の職員で、かなりな要職についていて当時はゲイとし

てはカミングアウトはできていませんでした。でも
Kさんの家に行ったり

話を聞いていて彼は妻帯者ではなく、配偶者のような人もいなかったので

お付き合い始めようかな思い時間を見つけて合っていました。
Kさんの面

白いエピソードは語学力です、彼は英語はもちろん、ドイツ語(日常会話

と新聞・書籍を読むことのできるレベル)、フランス語、イタリア語少々、

スペイン語少々、ロシア語少々と話すことが出来ました。私は語学力のセ

ンスは全くなく英語すらアメリカに住んでいるのに上手にしゃべれないの

で驚きでした。そして私が
Kさんに日本語を教えると素早くそれも覚えて

簡単な日本語の挨拶は出来ました。世の中には語学力に秀でている人が身

近にいるもんだと感心してしまいした。
Kさんはよく休暇でヨーロッパに

行っていたので、そんな旅行の楽しみでヨーロッパの言語を覚えたくなる

と言っていました。

 

当時を振り返ってみると、Kさんからいつも言われていたことがあります。

彼は仕事(州職員として現役)している間はリレーションシップを確立す

ることは出来ないと言っていました。当時は州の職員でもゲイとしてのカ

ミングアウトは難しかったようです、今になってよく分かる言葉です。そ

んな
Kさんとその後25年間も友人として付き合うとは思わなかったです、

そして
Kさんの最期を看取るとは思いもしなかったです。ちなみに現在私

が暮らしているコンドミニアムは、シアトルのゲイエリアの一角にあり
K

さんが長年暮していた彼の思い出の詰まった家で生活をしています。
K

んがよく歩いたこの辺りの景色はそんなに変わっていないと思います、で

も、この部屋の住人だけが変わってしまいました。

 

Kさんが亡くなり2週間位してある時にフリーウェイを運転していて、普段

から虹が出るような場所・季節ではないのですがドライブしている先に虹

が見えました。私の感傷的な想いかもしれませんが、
Kさんはその虹を渡

って遠くに逝ったと今でも思っています。そしてその時ですが、
Kさんは

こちらに向かって手を振っていたような気がします。

 

                              芳






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