芳さんのエッセイ №153

芳さんのシアトル特派員報告

(153) 私に大切な想い出を残してくれた人たち
Part Ⅱ

2024/04/22



私のことを大切にしてくれた人の二人目はアメリカ人でした、この人をT

さんと呼びます。その
Tさんとはハワイのホノルルで出会い、私はすでに

32
歳になっていました。私は日本人の彼が亡くなりショックで人生の心機

一転をしようと思っていた時に
Tさんに出会うことが出来ました。Tさんの

見た目はアメリカ人の白人の初老のおじさんで太目で優しい笑顔がとても

チャーミングな人でした、私は一目惚れしてしまいました。もし現在
T

んが存命なら
90代半ばですが、今でもナイス・ルッキング・アメリカン・

グランパのはずです。

 

私たちが知り合って初めの数か月間、私が日本に帰国した後もTさんから

アメリカ(ホノルルとシアトル)より
1日おきに国際電話(当時、日本では

国際電話がとても高い料金でした)でのコンタクトがありました。私はこ

の国際電話に感激してしまい、たくさんの手紙を書きました。当時は私の

英語力は微々たるもので電話で何か言われても良く解からないというもの

でしたがなんとなく雰囲気で理解した気分になっていました。出会いから

数年間は日本とアメリカの遠距離恋愛が始まりました。
Tさんは一年の半

分以上はワイキキのコンドミニアムに暮らして、残りは自分の住所のワシ

ントン州の北にある田舎町に暮らして私はその両方の地を訪ねていました。

ある時、Tさんに彼のいるワシントン州シアトル・エリアで一緒に暮らさ

ないかと言われ、一念発起しシアトルに移住しました。私の年齢は
37歳で、

多分移住に関しては自分の将来を考えてギリギリの年齢だったかと思いま

す。
Tさんのこの提案には本当に嬉しかったです。Tさんのこの気持ちがな

ければこの地に住むということはなく、今の生活はないから私のアメリカ

生活の基礎を作ってくれた人です。

 

Tさんのエピソードでよく覚えていて今でも可笑しく思うのが、彼は料理が

とても上手でした。でもレシピの通り作る人で食べる人数によって材料・

調味料の調節ができない人でした。通常、料理本に載っているレシピは
6

前以上なのでいつも材料費と量が多いディナーでした(笑)。結局は私た

ちの翌日のランチになったり私の友人に食べて貰っていました(友達には

大好評でした)。

私が移住した時は、ただ単純にTさんのことが好きというだけで行動を起

こしました、今なら絶対に移住をする勇気はないです。当時の私の家族・

友人は殆どの人は移住に反対でした。私は
Tさんとシアトルで暮らすにあ

たり学生ビサでアメリカへ入国して英語を習うことから始めました。
37

にもなって学校へ行くのは気恥ずかしいことでした。でも自由の国アメリ

カということで、いろんな人種・年齢の人が学校に行って場違いではない

ということが分かっていたので遅い学生生活を送っていました。周りの学

生は若い人が多いので私は馴染めなく、学校が終われば
Tさんと毎日何処

かで待ち合わせて多くのシアトルのエリアで楽しい時間を過ごしていまし

た。今考えて、
Tさんとどこかに旅行に行った時の思い出よりも、こう言

った何気ない日常の生活が楽しかったです。

 

Tさんにはたくさんの素敵な思い出を作ってもらいました。でも私の成長と

T
さんの高齢化に伴い私たちは普通の友人のような関係になってしまいまし

た。
Tさんはホノルルで亡くなり、ワイキキの海に散骨されました。この

散骨式には私も参列させてもらい、
Tさんにとても近い友人として船の上

でスピーチもさせてもらいました。その後もたまにワイキキに行くときが

あり、
Tさんとの思い出にふけってしまう時があります。ワイキキの街を

良く歩いていたのが昨日のことのようで、
Tさんの声がどこからか聞こえ

てきます。

 

                              芳






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