芳さんのエッセイ №152

芳さんのシアトル特派員報告

(152) 私に大切な想い出を残してくれた人たち
Part I

2024/04/19



今回から数回に渡り私の人生でお世話になった人たちのことを書いてみた

いと思います。



私は
60代後半でそれなりに恋愛を含めて人生の経験というものを積んでい

ます。今までの人生において私には深くかかわった人たちが日本での出会

いとアメリカでの出会いを合わせて
4人います。すでにその4人の方は他界

しているのでこの記述によって迷惑は掛からないと思うので、その体験を

話していきたいと思います。私はこの年齢で一人になり過去を振り返って

自分の生活を思うと本当にラッキーな人生だったと彼らとのめぐり逢いに

感謝しています。

 

私が初めて本格的に付き合った人は関西出身の人でしたが東京で出会いま

した。私が
20代少し過ぎたばかりのころに彼はすでに50代でした。そして

彼のことをおじさんと呼んでいました。今考えてみると、彼は多くの時間

を私のために費やしてくれました。

いくつかのエピソードがあります。特に印象に残っている一例を、彼は第

二次世界大戦に徴兵されてその悲惨さを体験して断固として戦争反対のス

タンスをとっていました。どんな状況でも次世代には戦争の悲惨な経験を

してほしくないという確固たる信念があり、戦争をするような国は認めた

くないと言っていました。だから現在私が住んでいる国も彼にしてみたら

認めたくない嫌いな国の一つでしょうね。

あと微笑ましいエピソードとしては、うちに来るときおじさんは部屋着と

してランニングシャツとステテコ(春、夏、秋、昭和の親父さんの定番部

屋着で、今考えてみるとそれが普通でしたね)で過ごしていました。お風

呂上りにその格好で外で涼んだり、ゴミ出しもその格好で外に行ってしま

うので私に文句を言われていました(笑)。私には彼のスーツ姿よりも、

この部屋着姿が印象に残っています。



私の所へ来ると部屋が汚れているといつも小言を言っていたので、偶は掃

除を手伝ってくれと言うとその時から部屋掃除の担当は彼の役目になりま

した。そしてその掃除のやり方は本当に几帳面な掃除でした。



私は彼からとても大切にされていてたくさんの愛情を注いでもらっていま

した、おじさんと知り合っていなければ今の自分の性格を含む人間形成は

なかったと思います。彼とは
10年ちょうど付き合いました、そして彼は私

をおいて遠いところに逝ってしまいました。彼が旅立った日の朝は実家の

縁側で、ぼんやりと柔らかい日差しのなかで外を見ていました。そんな時

に、誰かが後ろから私の右肩をポンポンと叩いた感覚があり、そのときは

直ぐに振り向きましたが誰もいませんでした。この何かを訴えるような感

触は今でも右肩に残っています、そして
10分もしない内に彼の家族から訃

報が届きました。



彼の家族は私をお通夜・お葬式に出席させてくれました(私の席は彼の親

族席でした)。私の年齢はその時に
30代に入ったばかりで仕事もバリバリ

やっていましたが、おじさんが亡くなったことにより全てに嫌気がさして

しまいました。自分も若かっただけに彼の死は自分の人生において大きな

試練でした。彼を失うという喪失感が渡米という大きな人生の賭けに私を

向かわせたのだと思っています。



彼が亡くなった時に、いつも身に着けていた腕時計を家族から形見として

いただきました、それは今でも大切に持っています。今から
47年以上前の

話です、おじさんの付けていたポマードの匂いと私を呼ぶ時の声がくっき

りと記憶の中にあります。

 

                              芳






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